感性に来ますか?
日用品の買い物、と言うより、買い出しと言ったほうがしっくり来る日々の買い物。
今晩の夕食のメニューはもちろん翌日やそのあとのちょっとした作り置きの料理も
考えながら買い物を日々こなす現代に生きる我々。生きていくため、というと
大げさに聞こえますが、本質はその通りでごく一般的には”生活をする”という一言
に集約されます。この一連の営みの状態のことは”日常”と形容されています。
で、今回のテーマはこの対義語の”非日常”についてです。
この日常と非日常はよく” ハレ ”と” ケ ”という言葉で対比されたり論じられたり
します。これは日本民俗学の開拓者の柳田國男がその著書のなかで用いたこと
で広く知られています。ここで誤解されているのは、”ケ”=「穢れ(汚れ)」
であり、忌み嫌われるタブーであるという認識。そしてそれがなんとなく現代の
日本人のうっすらとした共通認識になっているような気がします。この認識は
柳田國男亡き後の民俗学研究の中で生まれた一つの解釈に過ぎないのです。
これらの言葉が生まれた時代は定かではないですが、1549年にイエズス会所属の
宣教師が長崎にやって来て50年ほど後に編纂された日本語-ポルトガル語の辞書
には載っていたというので少なくとも江戸時代以前から存在していた、ということ
になります。その辞書の説明では”ハレ”は「表立ったこと、人がたくさん集まった所」
”ケ”は「普通の、日常の所やモノ」とあるそうです。つまり、”ケ”は汚れでもタブー
なものでもないというのがそもそもの意味です。それがなぜか現代社会において
”ケ”=汚れとなってしまっているのです。当時の人々は日常生活を営む合間に時節の
折り目に行うお祭りを”ハレ”として普段とは違う服装、「ハレ着」で装い、
普段とは違う行動様式を行っていたということです。
要するに、普段の日とお祭りの日ということなのです。ここでちょっとした問題が
起こっています。葬式をハレに分類するのかケに分類すかということです。古代より
死者を悼む風習の一環としての祭りが日本各地で行われていたのは遺跡などからも
わかっており、その日は普段とは違う行動、様式が営まれ、日常とは乖離した時間
が流れていたと容易に推測されます。そして現代では”葬祭”と定義づけられ普段とは
違う服装でその儀式、「葬儀」として広く定着しています。日常ではない行為が
行われるということでハレに分類するのが妥当だ、という意見と、そうでない
とする意見がありました。結局どちらが正しいというでもなく葬儀はハレでは
ないというながれになっています。どうもこのあたりからケはケガレ(穢れ、
汚れの)ケと誤った認識がなんとなく広がったようです。江戸時代の初めに
編纂された日本語-ポルトガル語辞書にはどこにもケ=汚れなどとは記載されて
いません。なので現代社会に広く流布している認識、「死=汚れ」は誤りで
あると結論付けられます。そもそも死は生と表裏一体でこの世に存在する
生きとし生ける存在はこの摂理からは逃れられません。人生での役割を終えた後に
迎える死はカーテンコールに値すると言っても過言ではないでしょう。
ただ人間の”死”には様々なカタチがあるので全ての死がそれにふさわしいわけでは
ないと思います。
話がちょっとややこしい所に入り込んでしまいましたが、ハレは非日常で煌びやか
な景色を堪能できる時間が流れる日、ケはそうでない日常の時間が流れる日という
ことです。そして死もいつ訪れるかわからないという点はあるものの日常に必ず
存在するもの、そういう意味でケに入ります。
このオアシス311号室はまさしく非日常の世界が表現されたお部屋に仕上がって
います。子供のころに感じたお祭りの夜店での何とも言えない高揚感。高い山を
登ったあとに見えるあの素晴らしい景色を見た時の感動、は言いすぎでしょうか、
こんな言葉に言い表せない、理由は説明できないけど「テンション上がる!」と
いう高揚感を感じられる部屋を目指して作りました。
お部屋選びで迷われた時には、フフフと笑って参考にしていただけましたら幸いです。